ふみ虫舎エッセイ通信講座作品集


2023年2月の公開作品


庭ということば  リウ真紀子(リウ・マキコ)


 東京都北多摩郡という、今はなき住所の借家暮らしが記憶の始まりだ。

 小さな2軒長屋だったが、真南に面した6畳間の長辺いっぱいに、大きな掃き出し窓と濡れ縁があった。そこから繋がる庭で筵を広げてままごとしたり、ビニールプールで水浴びしたものだった。

 父は子供のために庭づくりに精出した。農業大学から当時はまだ珍しかった八重咲きのチューリップ球根を分けてもらい庭いっぱいに咲かせたり、赤いつるバラを上手に繁らせ一面に花を咲かせたり、ちょっと地面を掘ってセメントを流し池にして金魚を飼ったりもしてくれた。庭という、安心して日暮れまで過ごせる空間があったのはなんと恵まれていたのだろう。

 細い通路に沿って北側にまわると、質素な門と玄関があった。さらに進むと勝手口があり、そこにはポンプで汲み出す井戸があった。ジブリ作品『となりのトトロ』に登場するあれである。

 玄関周りなのに日差しがあまり当たらないからちょっと寂しいところで、踏み固められたような地表から負けずに伸びてくるドクダミが初夏になると白い花を咲かせた。触ったり葉を傷つけたりすると独特の匂いがして、子どもだった自分には少し恐ろしい植物だった。ペッタリと固まったような地面にはゼニゴケも広がって、南側とは全く違う空間。両親はそんな北側の地面には注意も払わず放っていた。

 読書するようになって出会う「裏庭」という言葉で思い浮かべるのは、この北側の井戸とそのまわり、冷たく固くなった地面のことだった。「庭」と呼んでいいのは、日当たりのよい南側の庭だけだと思っていた。翻訳された西欧の子ども向け読み物に出てくる庭の描写でも、思い浮かべるのは、自分が育った庭だった。

 

 イギリスで暮らす機会があり、街並みや家の佇まいにも触れた。公道に面する住宅の玄関まわりのfront yardに対して、道から見通せない住居建物の向こう側に広がるプライベートな空間をback yardと捉えるのが一般的なようだ。このback yardが裏庭と訳されるのだが、なるほど、子どもが遊んだり家族でバーベキューしたりする「我が家の領域」がそれで、日当たりが今ひとつでちょっとひっそりしている裏側の空間という意味ではないのだと気づいた。

 

 日本であっても気候風土は様々なので、きっと「庭は家の南側」にこだわらないところも多いのだろう。自分が育ってきた環境、経験してきた事柄に、言葉の理解はずいぶん制約を受けているものだ。こんな気づきがあると、トム(*1)が13時の鐘を聞いてそうっと階段を降りていった真夜中の庭や、秘密の花園(*2)の庭をもう一度訪ね直したいという気持ちがふくらんでくる。そして、今暮らしている家の小さな庭では陰も日向も生かしつつ、表も裏もない庭づくりを楽しみたいものだと思う。

 

*1『トムは真夜中の庭で』 イギリスの作家、フィリパ・ピアスによる児童文学。初版1958年。

*2『秘密の花園』 イギリスの作家、バーネットによる児童文学。初版1911年。

 

*****

〈山本ふみこからひとこと〉

 記憶のなかの物語を紡ぐのは、むずかしい……。

 なぜといって、つい甘みがつよくなるからです。

 甘みの強いものを飲まされる(読まされる)読者は、どうしたってむせかえってしまいます。甘くなる理由にとして、登場人物への感謝、サービスもあげられます。それはどうか、べつの機会に、お伝えくださいましね。

「庭ということば」はその意味でも、よい調味です。 ふ


2023年1月の公開作品


思いがけないおくりもの    おりべまり(オリベ・マリ)

 

「あ〜っ!」

 あやうく転ぶところだった。 

 

「週に4日1時間歩きなさい!」とかかりつけの先生に言われたのは3週間前のことだ。それでしぶしぶ家のまわりを歩き始めた。

 目的もなく歩くのはあまり好きではない。

 ずいぶん歩いたと思っても15分ほどしか経ってないことが少なくないから、何かを聴きながら歩くようにしている。

 この前は仲良しの友だちとおしゃべりをしながら森を歩いたが、ふと気づいた時には50分が経っていた。そんなものである。

 

 秋も深まり、わたしの住むとおくの国の風景は日に日に変わっていく。

 めずらしくお日様の照る気持ちのよいお天気だから、今日は歩くのも苦ではない。

 日本の紅葉の時期とはちがった風情。

 建物にからまる蔦の葉が、黄色、オレンジ、そして真っ赤にグラデーションを描く。

 はらはらと高いところから落ちて来る葉っぱの中には、わたしの手のひらよりもはるかに大きいものもある。

 陽の光にてらされた風に舞う落ち葉のカーテンが、地面に少しずつ敷きつめられて赤いペルシャ絨毯と化す。

 

 今年は雨のふらない夏、ものすごくあつーい夏だった。

 芝生も枯れた。植木も枯れた。それが9月まで続き、水不足が心配された。

 たまには暑くて長い夏もいいじゃない! と思ってみたが、確実に温暖化が進んでいることを身をもって知らされ、喜んでいる場合ではないと感じた。

 例年は8月に入るとスーッと涼しくなり、すでに秋の気配がして風もいくらか冷たくなり寂しげになる。

 

 天候が不安定なこの国は、1年を通して雨がおおく、空がひくい。

 この気候のせいで、ここの人々は他の国の人たちに比べて多少暗く閉鎖的だと感じる。

 いや、ひかえ目である、というべきか。

 

 朝起きて太陽の光を浴びるというだけで、その日の気分がどれだけ違うかということをここで30年暮らしてきて実感している。真っ暗の中起きて、やっと明るくなってきたと思っても日中はグレー、雲が重く空にのしかかっているせいで息苦しいような感じがする。そこへ雨がしとしと降れば、その日の気分は限界に近づき、ため息ばかりだ。それがここの11月なのである。

 

 それでもクリスマスが近づくと、その暗さを忘れさせるかのごとく街はキラキラと輝き、本格的な寒さがやって来る。グレーの空はともかく、この国の冬がけっこう好きだ。森を散歩すると、靄(もや)が一面にかかり、朝でも昼でも夜でも、なんとも幻想的な風景に出会える。寒さをしのぐために近くのカフェでホットワインなんかを飲んだりして……。

 

 と、いろいろなことを妄想しながらぼんやりと上ばかり見て歩いていたら、落ち葉の赤い絨毯の上で足がツルッとすべった。葉っぱの下に隠れた犬のアレを踏んだのだった。

 

*****

〈山本ふみこからひとこと〉

 ヨーロッパ在住の「おりべまり」。

 日本の秋の深まりとは異なる気配を受けとめ、受けとめ読みました。

 皆さんも、どうぞおたのしみください。

 

 うつくしいなあ、と嘆息しつつ読み進めましたが、結びにはくすっと笑わずにはいられませんでした。ふ


それで、いいのだ。  追分なつ(オイワケ・ナツ)

 

 はじめて自分で注文して本を買ったのは、小学校5年生のときだった。

「はたして、子どもの言い分をきいてくれるものなのか?」

 とドキドキしながら、いつも行く本屋さんより、少し大きな本屋さんの扉を開けた。カウンターの横で、何度もメモを読み返してから、やっとお願いしてみた。こちらのドキドキとはウラハラに、淡々と事務的な言葉が返ってきた。差し出されたノートに指示されたことを書き入れ、頭を下げた。

 2週間ほど待っただろうか。約束通り、その本はやってきた。大切にとっておいた図書券が、わたしにプレゼントをしてくれた。

『詩の生まれる日』

 学校で担任の先生が読んでくれたその本の中の、『春』という詩を何度も読みたくて、わたしは注文したのだった。かっちゃん、という男の子が書いた詩だ。

 

たんぼに、/ほりかえした大きい土のかたまりがあった。/先生の/あごの形ににている。/泥の上にすわって竹とんぼのえで、/先生の顔みたいにちょうこくした。/よーくにてきた。/たんぼのふちに立てて、/「またあいにくるよ。」ってあいさつをした。/大根のつぼみがあった。

 

 わたしも、そんなふうに、ひとりですごすことがよくあった。

 まわりの女の子たちが、好きな男の子の話や、きのうテレビで見たアニメの話題で盛り上がったりしていた年頃だ。

「うんうん」とその場にいることもあるのだが、ひとりふらりと、ぬけ出して、木や花とのんびりすごすことも多かった。

「かっちゃんとは同じ景色を共有している。」

 心の友のように感じていたのかもしれない。今思うと、土を先生に見立てていたぶん、かっちゃんのほうが社交的だったのかもしれないけれど。

 

 そして、わたしは、そのまま大人になった。

 ふと気がつくと、ひとりのんびり土手や野はらで空を見上げ、風にふかれていたりする。そして、頭がからっぽになったころ、花や木に「またくるよ。」ってあいさつをする。わたしをとりまくあらゆるものに、「ありがとう」と思っている。

 かっちゃんは、それを知らない。

 それで、いいのだ。

 

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〈山本ふみこからひとこと〉

 ひとは見えているようには生きていない。

 最近とみに思うことです。

 作家の「追分なつ」に、わたしは二度ばかり会ったことがあるけれど、「ひとりになりたい」と考えているなんてところは見せない、明るくて人懐っこいひと、というのが印象です。

 そんなことを考えるわたしも、そう。

「自分は人嫌いなんだろうか」と考えることがあるとは、誰にもわからない、なんというかひとに囲まれていることが好きな賑賑しいわたしに見えているでしょうね。

 

 なつさんの真似しちゃおう。

 それでいいのだ。

 

 さてところで。

 ものを書くときは、ひとりです。

 ひとりになる時間をつくらないかぎり、書くことは決して実現しないと云ってもいい……。

 そこがもっとも好きなところです。

 皆さん、ご自身とよく会話して、ご自身を理解しようとしてくださいましね。

「孤独」と聞いて、それはお気の毒、なんて考えたりしないわたしたちは、「孤独」の肩を持って値打ちを探ってゆく道を選んだわたしたちは、書き手なのです。 ふ


夏の終わる頃に   しもむらひでこ

 

 こんな、新聞投稿を読む。

 配偶者を亡くした50代の女性が、知人に「いつもじゃないけどね、ときどきご主人、近くに来るから」と言われたことへの思いが綴られていた。

 私も友人に「ご主人は、あなたが心配で、きっと見守っていて、姿や声では伝えられないけれど、いろんな方法で、合図をおくってくると思うよ」と言われたことを思い出していた。

 こんな話、信じたい人にとっては願いや救いであり、信じられない人には

「なーに言ってんだか」

 ということなのだけれど。

 

 で、「ヤモリ」です。

 

 何年もこのところ、夏の終わる頃に1匹のヤモリが現れる。

台所のシンク前の左側の磨りガラス窓の外側に。おなか側からのシルエットをしっかり見せつけてくれる。

 初めて気づいた時、「ひぇー、どうしよう」と思った。私は、この手のシルエットをもつ生き物は苦手だ。とりあえず、お引取り願いたいが、刺激を与えず、そーっとしておくことにした。ヤモリは「家守り」で家を守ると、どこかで聞いたように頭にうかんだからだ。

 翌朝、窓を見るといない。

「よしよし」とほっとする。夕方帰宅するとはりついている。この繰り返しで数日過ごす。

 今年は、来ないな、と思った気持ちが伝わったものか、とたんに現れた。定位置に。

 調理する位置に立つと、その視線の先の目の高さにヤモリがいる。見ないわけにはいかない。

 いいんです。

 地球は、大きなおうちですもの、いたい所にいてください。

 でもね、夜、電気をつけた時、窓にはりついたシルエットをみるとね、こう、背中がザワザワ、ゾクゾクしてしまうんです。私。

 今年も3日ほどして、いなくなった。ほっとした。

 そう、ほっとしているのに、ほっとするのが申し訳ないような、はたまた、愛想尽かされ、おいていかれたような心細くなるのは、どうしたことだろう。

 しかも「『来年も待っているよ。』なんて、言えない私を許してね。」とつい詫びてしまうのは、どうなの、私。

 

 きっと心のどこかで、毎年考えているんだ、あれは。「みんなを守っているよ」の「合図」なのかと。

 

 ヤモリが見えなくなった後に。

 

*****

〈山本ふみこからひとこと〉

 この作品を書き上げたあと、「しもむらひでこ」とやりとりがありました。何についてだと思いますか? 

「旦那さまのこと?」

 ええ、そのことも聞きました。

 でも、その話は内緒です。

 

 句読点の話をしたのです。

「夏の終わる頃に」の終わり近くに、こんなくだりがあらわれます。

 

              *

 きっと心のどこかで、毎年考えているんだ、あれは。「みんなを守っているよ」の「合図」なのかと。

              * 

 

 書き手は迷いました。

「あれは」のあとを「。」にしたものか、「、」にしたものか……と。

 

 どちらでもいいでしょう、と思われたあなた。それはちがいます。

「、」「。」は、大きな大きな存在です。

「、」「。」で書く。

「、」「。」で決まる。

 と云ってもいいほどなのです。

 そこにこそ、書き手のセンスがあらわれるのです。

 

 ここでは「。」が選ばれました。

「正解です!」という話ではないのが、文章世界の不思議であり、おもしろみです。ただ、こんなところに神経を遣うことこそが大事。

「、」「。」に気持ちを向けることのできる書き手でありたいですね。  ふ


100字エッセイ  

 
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はるの麻子(ハルノ・アサコ)

 

「ボクは男を捨てるつもりはないよ、いくつになってもね。キミも女を捨てるつもりはないだろう」草とりをしていたら聞こえてきたセリフ。携帯電話で話しながら道を行く男。妄想を噛みしめつつ、草とり、草とり。

 

2か月間エッセイが書けなかった。冷蔵庫に詰まった食材をながめても料理にとりかかれない状況に似ている。あれを作ろう、いやこれがいいかも。アイデアが浮かんでは散らばっていくばかりで、全くまとまらない。


(2022年11月29日)

 

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クッカハナコ

 

クリスマスの準備を始めよう。

まずはオレンジポマンダー作りから。クローブをオレンジに挿しシナモンをまぶす。うーん良い香り。部屋中クリスマスの香りに包まれる。

仕上げにシャンパンゴールドのリボンを結ぶ。


 

ようやく理想のレインコートを見つけた。黄色のポンチョタイプ。胴長でもお尻までしっかりカバーできる。フードはかなり大きい。これを探していたのだ。これで雨の日もご機嫌だ。

あっ、これ愛犬のレインコートです。

 

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ルウ真紀子(ルウ・マキコ)

 

自分の親世代を看取った頃、90歳過ぎてなお元気なお年寄りは稀だったはず。

だから、絶好調の母はどう振る舞えばよいのか迷っているのだろう。これほど達者なのだもの、わたしは年寄り扱いなんていたしませんとも。



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〈山本ふみこからひとこと〉

 100字エッセイのおもしろみを、噛み締めています。100字の行間に、書き手の気分のようなものが見え隠れしています。情感、ムードを大切に。 ふ


後ろに注意  三澤モナ(ミサワ・モナ)


 恥ずかしくて、できればすぐに穴に入りたかった。昨年の夏の出来事である。

 銀行などの用事があって出かけ、そのあとカフェでランチをした。1年前に買った麻のワンピースを、私は着ていた。通販カタログで見て買い、素材とデザインを気に入っていた。その日は買ってから2回目の着用。どこか着心地が悪かったが、急いでいたので、そのまま出かけたのだった。

「オシャレなワンピースでオシャレなランチ」が終わって、車に乗って気がついた。ワンピースの背中のファスナーが開いていたのだ。何かピタッと来ないと思っていたのは、そのせいだったのだ。「なんか変」と思ったときに気づくべきだった。下に着ていた黒のスリップが丸見えだった……はず。

 カフェのお客さんもスタッフもきっと見たよね。あーっ、恥ずかしい。ドキドキしてきた。

「黒のスリップを見せるためのおしゃれ!」とか、「そういう斬新なデザイン!」と思ってくれなかったかな?とひとりで悪あがきする。

 あわててファスナーを上げ、急いで運転して帰宅した。

 家に着くなり、ワンピースを脱ぎ捨てた。ワンピースは悪くないのに、理不尽にも、恥ずかしさと悔しさをワンピースにぶつけていた。気に入っていたのに……と。着用するたびに思い出しそうだ。

 

 20代のころの同じようなショックを思い出した。

 職場用の服を通勤着に着替えて、さっそうと廊下を歩いていた私。後ろから、足音が聞こえた。上司が何も言わず、普通に通り過ぎた。私はふと違和感を感じ、ハッとしてタイトスカートの後ろファスナーに手をやった。開いていた。絶対気づいたよね。私、カッコつけて歩いていたのに……。顔から火が出るほど恥ずかしくなった。上司が女性なら教えてくれただろうか。男性上司が知らん顔してくれたことに感謝すべきだろうか。

 

 またやっちゃった。もっと早く、右腕が五十肩で十分に上がらなくなった時点で、そんな服をあきらめるべきだった。

「もはや後ろファスナーの服を着ないぞ」と決心したものの、麻のワンピースを惜しんで、しばらく恨めしく眺めていたのだった。

 

 

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〈山本ふみこからひとこと〉

 数かぎりなくあります、わたしにも。

 恥をかきながらの人生を、昨日までつづけてきて、きょうからまたつづけてゆくのがわたしというひとらしいです。

 

 ほんとうによくぞ書いてくださいました。

 どうもありがとうございます。

 こんなふうに書き手と読み手のあいだの分かち合いによって、作品のぬくもりはつくられ、育てられます。分かち合おうと考え、企てるだけでは、そうはならない。

 日頃から、他者に興味を寄せ、その存在が抱える事情や心持ちを想像することが、どうしたって必要です。

 2023年も皆さんと、こころを耕しながら、紡いでまいりたいと存じます。

 あたらしいことも、してみたいと考えています。

 

 書くことの「大事」を胸に抱いて、1年を過ごしましょう。

  2023年1月3日

                  ふみ虫舎エッセイ講座日直 

                      山本ふみこ